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アラン・ボレル霞みの謎 vesrion française borer english

 


「芸術」あるいは「詩」について疑問を提起できるのは、歩きながら、特に朝の爽やかな空気の中で、たゆまず歩み続けながらだ。
もっと精確には、徒歩の途中にリュックを置いて休むように疑問を静かに立てるのではなく、疑問に出会いに行く。

というのは疑問はただ提起された状態で文字どおり抜き去られるからだ。
しかし詩は異なる。歩くことで芭蕉は、大胆な、動きのある、時空に広がり、投影される詩の領域を開いた。

そして彼の足跡に、連れ立って、あるいはばらばらに、彼とともに問うような答えを持つ者たちが到来する。

歩くことで芭蕉は、開かれた中へ入り、一層深く問うことに身を投じた。 コート・ジボワールの原始の森、タイの森以来自らの道を追求し、そして桜祭と花見へ到ったカイディン、
(べトナムの最後の皇帝、祝賀の服に電球を飾ることまでした偉大な光り瞬いたカイディン帝の新たな服をまとうその名の)彼女の明快なアプローチはこのような芭蕉に続くものだ。

「放浪」はすなわちこの質問そのものである。一歩づつなおも画架と画廊のアートから離れ、そのアートの歩みはアートの市場に、そして遠く砂漠の中に巨大で断固とした跡を印したランドアートの「アースワーク」とさえも対立する。

前進は逆に繊細で束の間であることにしかない。カイディンの(俳句の17音のように)17の窪みに(アンディー・ゴールズワージーまたはニルス・ウドが行った葉と花の組み合せ、そしてリチャード・ロングがタレント川に沿った何キロもの小道にしたそれのように)鳥の羽と秋の赤い木の実を飾った岩。
すなわち前進は、考案、発展であり、「理解し」同時に「実感する」という「悟る」という動詞に把握されるもの、高い次元の目覚め、「悟り」への道なのだ。
それは出合い、カイディンの束の間のインスタレーションが、「松島や ああ松島や 松島や」としか言えなかった芭蕉の俳句に(イラストをつけたのではなく具現して)合流し、世界が「松島の冬のコート」を着る出合い、世界の果ての細い小道で起きる出合いであり、そこで光が瞬くのだ。

アラン・ボレル


Miguel barcello bassam 1991

Miguel barcello bassam 1991